私が「文喫」にピンと来ない理由
六本木に「文喫」というものができたそうだ。
所謂 漫喫の書籍版で、入場料を払うだけで本読み放題 飲み物飲み放題 滞在し放題という まさに新しい形の「本屋」だと言えるだろう。
最初にこの話を聞いた時、私の頭には一つの言葉が浮かんだ。
「図書館で良くない?タダだし」
いや違う違う。まず図書館では本を購入する事ができないし、何よりこのお店のコンセプトは「訪れた人が本と偶然の恋に落ちる場所」。その為 より沢山の本と出会えるよう様々な試みがなされているようだ。
(詳しくはこちら↓を参照)
かく言う私も久しく図書館には足を運んでいない。大学の図書館すらほぼ全くと言って良いほど利用しない。小学生の頃は毎日のように行って片っ端から読み漁っていたものだが、自分で本を購入できるようになってからはすっかりご無沙汰だ。
しかし本屋は好きだ。もはや中毒と言っても過言では無いくらい好きで、一週間も行かないと禁断症状で身体がソワソワしてしまう程だ。例え目的の本が無くとも あの大量の本に囲まれているだけで心が満たされる。
ならば「文喫」のような試みは大好物なのではないか。普段の私を知っている人ならば尚更「好きそう」と思うかもしれない。私もそう思っていた。しかし、自分でも驚く程に興味が湧かないのだ。むしろ若干の気持ち悪ささえ覚えた程だ。これは不思議だ。何故だ。
そうして考えた時、私が好きなのは純粋に「本屋」としての機能のみに特化している店である事に気付いたのである。ジュンク堂や三省堂といった大型書店、また町中にある小さな本屋などがこれに該当する。こうした本屋をここでは総称して「書店」と呼ぶ事にする。
一方で最近は「本屋+〇〇」と従来の書店に付加価値を加えた広義の意味での本屋が増えて来ている。〇〇に当てはまるものはカフェ、アート展示、ライブハウスなど様々なものがあり、「文喫」の試みもこれに含まれる。
「書店」と「本屋」との違いは何か。
それはひとえに空間に漂う意図の濃さである。簡単に言えば後者は店中に店主の狙いが充満していて息が詰まってしまう事が多いのだ。
今回の「文喫」に限って言えば、まさにコンセプトである「本との出会い、恋」に本能的に拒否反応が出てしまう。確かに素晴らしい試みだと思う。しかし「書店」が日常だとすれば、「文喫」の空間はまるで合コンや街コン会場のように思えて仕方無いのだ。何かと出会う為整えられた空間。誰かの狙いが全体を屋根のように覆い尽くしているような感覚。
まるでよくできた青春映画のようだ。その出会いは美しい。確かに紛れもなく美しい。しかし「作られた偶然」は果たして偶然と呼べるのだろうか?
もちろんそうした出会いを否定する気は無い。始まりがどんな形であろうと良い本に出会える事は素晴らしいと思うし、少なくともこうしてコタツでゴロゴロしているよりも確実に出会いの数は増えるだろう。
ただ、ただただ個人的にピンと来なかったなという話。丁寧に作り上げられた空間だからこそ余りにも余白が無くて、どこに行ってもそこかしこに意図が張り巡らされているように感じるのだ。「ほらこの本面白いですよ。この本もこの本も良いですよ。どうぞ恋に落ちちゃってください」というまるで風俗店の安い呼び込み文句のような空気を感じ取ってしまうのだ。違う、本はただそこにあるだけで良い。こちらが勝手に出会うから。
確かに今全国的に書店は数を減らしていて、その原因が電子書籍や本のネット販売などである事を考えると、わざわざ本屋に足を運ぶことそれ自体に価値付けをする必要がある事はもはや自明である。その為一つの打開案としてこうした新しい本屋の形が考案された事は非常に素晴らしいと思う。世界中には絶対に読みきれないほど良い本が沢山あるし、生涯の一冊と出会える事はこの上ない幸せの一つだと思う。
私にとっての本屋は息を吐ける場所だ。だから息が詰まってしまっては困る。何も言わなくて良いしこっちを見てくれなくても良い。ただ、ここに居る自分を受け入れてくれればそれだけで充分なのだ。その為には余白が必要だ。満たされた空間では溺れてしまう。そんな場所では私は呼吸をする事さえできない。
届かない電波のはなし。
どうもこんばんは、いしだたみです。
コーヒーへの愛が高まり過ぎて遂にコーヒーポットを買ってしまいました。
さてさて。
Softbank、通信障害してましたね!
いしだたみも根っからのSoftbankユーザーなので見事にやられました。
これを書いてる現在も復旧してません。
ん?お、ちょうど復活したかもしれない。なんてタイムリー。
今日のお昼は同期とカレーを食べてた訳ですが、
ふと携帯を見ると左上に3Gの文字が。
「地下でもないのになんて電波の悪いお店だ」とか思ってる内にそのまま圏外に。
あびゃびゃ。
大学で授業がある間は学校wi-fiにお世話になれば良いものの、
一歩敷地を出ると完全な電波難民と化しました。
うふふ。
通信障害。
ワクワクしましたねぇ〜〜!!
外部から何の情報も得られない自分自身はもちろん、
周りの人達もそうなのかと思うと余計にワクワクしました。
街中でスキップできそうなくらい。
今回はSoftbankユーザーだけでしたが、これが本当に日本全域大規模通信障害とかだったら尚更高まっただろうな。
いやいや分かってますよ。
それに伴って起きる人的被害とか困難とかね。
不謹慎だって言われるのは重々分かった上で、それでも大規模パニックというものには胸が騒いでしまう。
のが何故かと考えた時に。
私は「当たり前」が壊れるのが好きなんだなあ
という事に思い至りました。
巨大なビルの後ろから突然怪獣が現れるとか。
適当に唱えた呪文が効いてしまったりとか。
別の世界への道を見つけてしまうとか。
そういうのと、同じ。
ありえない、って思う?
私はそんな事は無いと思う。
いつだって可能性はそこら中に溢れてると思う。
ディストピアものも戦争ものも大好物だ。本物はおんなじくらい大っ嫌いだけど。
文明に依存し過ぎるとゴジラが現れてギドラが全てを滅ぼすって虚淵も言ってた。
大規模な戦争なんか起こさなくても良い。
ただちょっと電波を遮断してやれば良い。
それだけで人間は勝手に大打撃を食らってくれる。
発展し過ぎた人類へのアンチテーゼが凄く好きだ。
ふとした日常に寄り添うファンタジーが凄く好きだ。
突然訪れた非日常に対面した時、人間は、あなたはどうするのだろう。
私はそこにこそ それぞれの人間性が表れると思う。
イージーモードを楽々クリアするより、ハードモードに挑んでる時の方が生きてるって思うでしょってそういうはなし。
遠くの誰かといつも繋がってるのは「当たり前」じゃない。
あなたが今ここで生きてるのは決して「当たり前」じゃない。
類稀な奇跡の積み重ねで、私たちの日常はできている。
“良い文章”とリンゴのはなし。
こんにちは、いしだたみです。
最近 言葉 について考える機会が多いです。迷走期なのかもしれません。
さてこうやって詩やらお話やら文章やら書いてると、何だか
「良いこと言ってる」
「綺麗な文章だなあ」
「凄く好きな言葉」
と思われる一族と、
「いやこいつイタいなあ」
「自分に酔いすぎ」
「言葉がキラキラしてる(笑」
と思われる一族が居る気がする。
何だろうこの違いは。
その人自身の好感度、という身も蓋も無い説明で終わってしまう気もする。えー、それは何か悲しい世界だなぁ。
もしくは世間から認められてる度合い。肩書きは一番分かりやすいステータスだ。
「小説家」「詩人」「脚本家」「作家」...
そういうものが付けば 何を書いても許されるように思える。いやきっと誰が何を書いても許されるんだとは思うけど。
「他人の目なんか気にせず好きに書いたら良いじゃない!そういう所がイタいのよ!」
たしかに。周りにどう思われるかを気にしてる文章は得てして読みにくい。多分無意識の内に格好付けてたり、押し付けがましい主張が滲んでたりするからじゃないかな。
でも演出家の思想を客席に向かって大声で役者に叫ばせる脚本も往々にしてある訳で。
それら全てが全てうるさいかと言えばそうでもない。自分とは違う価値観だけどなるほどな、と思って飲み込めるものもあるし 単純に綺麗な言葉だな、と思うものもある。
てかある程度自分に酔ってなきゃ文章なんて書けなくないか。それが人の目に触れるものなら尚更。
うーん。
こうやってごちゃごちゃ考えてる時点でもう違う気もしてくる。そんな事気にせず書きたい事書けや!って声が聞こえる気がする。うるさいうるさい。
色んな人の意見が聞きたいなあと思う午後1時。
あああ三限あるのに遅刻だ遅刻。
リンゴ齧ってる場合じゃない。
大好きな時間のはなし。
後輩がブログで好きなものいっぱい書き並べてました。
あれ良いですよね。誰も不幸にならないしどこかの誰かがきっと幸せになる。好きなものについて語るってそういう事だと思います。
一人で居る時間 と みんなで居る時間。
私はどっちも好きだけど、みんなの時間が無いと一人の時間は愛せないだろうなぁと思う。少なくとも私は。
一人の時間は好き。
だから今一人暮らしをしてる。
一人で居ると 時間がゆったりと流れる。何にも急かされてない感じ。何にも置いてかれてない感じ。そんなちょうど良い真ん中さが、私は凄く好きだ。
それと同じだけ、みんなと居る時間が好きだ。
好きだと思える人達がここに居て、自分もその中に居られること。それ自体が凄く尊い事だなぁと思う。
みんなと居ると時間があっという間に流れる。
心から笑って泣いて、幸せだなって迷いなく言い切れる。そういう自分は きっといつもより嫌いじゃない。
「みんな」で居すぎると酔っちゃうし、一人で居すぎると腐っちゃう。
から、ちゃんと行き来できる環境が大事。
誰かと会って話して楽しんで、満ち足りてるって気持ちを一人で静かに噛み締める。そんな生活をずっと送りたい。
どっちも大事。どっちも必要。
今日はとっても楽しい時間を過ごせたから、一人の時間も楽しめてる。何だか良い感じの写真も撮れる。私は確かに一人だけど、少なくとも今この時間だけは 独りぼっちじゃないんだ。
明日も良い日になりますように。
そんな風に願いながら終える一日は絶対に幸せだ。
諸刃の剣
強い感情を強い言葉でしか伝えられない。
のが、弱みだとは分かってるんですけどね。
皆さんお久し振りです いしだたみです。
突然ですが、私は言葉を紡ぐのが苦手です。
「何言っとんじゃい」
「いやそれは嘘。絶対嘘」
「いしだたみさんってそういう所ありますよね」
分かるよ分かる。
そう言いたくなる気持ちはよく分かる。
確かに私は言葉数が多いです。「寡黙」という形容詞が当てはまらない人間である事は分かってるし、コイツは人を論破するのが趣味だと思ってる人も多々居る事でしょう。
でも、それを扱いきれてるかというと決してそんな事はないです。
むしろ自分の発した言葉に振り回されてしまうという意味で、自分は言葉を紡ぐのが苦手だなあとしみじみ思うわけです。
これ伝わる人と伝わらない人が居ると思うんですけど、
・最初は頭で考えて喋ってても ノッてくると口が勝手に喋ってしまう。
・止めようと思っても自分で自分の言葉を止める事ができない。
・頭の中を全部変換しきるまで同じトーン同じテンション同じ圧で喋り続けてしまう。
みたいな所が私にはあります。
手に余る大剣を振り回して結局自分を斬っちゃうみたいな感じですかね。全然上手くない例えですね。謝罪。
大体そういう時は 解散した後物凄い罪悪感と後悔に襲われます。
自分の能力を制御できず街を破壊し尽くしてしまった後の気持ちみたいなものですかね。違いますかね。今日はどうやら頭がファンタジーらしいですね。謝罪。
だからね、なるべく喋りたくないなって思うのです。
そういう言葉の使い方は凄く悲しいから。
でも自分はどうやら気を抜くと、そういう使い方をしてしまうらしいから。そういう使い方を、できてしまう人らしいから。
もちろん、言葉に助けられた事もいっぱいある。
「お喋りな人」「親しみやすい人」そういうステータスで繋がった縁もある。から、一概に全部嫌い嫌いとは言わない。
でも、たまに死ぬ程自分を嫌いになってしまう。この喉を潰してしまえばと思う時がある。
大好きな人達を嫌いたくない。
大好きな言葉達を嫌いたくない。
から、諸刃の剣で勝手に傷付いてる自分自身を嫌ってしまう。
上手く黙り合える人と出会って行きたいですよね。こんなに言葉を持て余してしまうくらいなら。
そうそう。私、言葉の使い方下手なんですよ。
冗長だし要領を得ないし平気で文脈無視するし自分の言語開発するし。ふにふにって何やねん。
だから、誰かを論破する事が趣味 なんてことは全く無いわけです。ただ多分、言葉を使うのが好きなだけなんだと思うのです。なのに上手く扱いきれないね。未熟だね。ゴメンね。
きっと 深夜だからこんな事を考えてる。
朝になればもっと普通に清々しい目覚めを迎える。
早く寝よう。今日の後悔なんて忘れて。
いや 忘れる事はきっと無理だから 抱えて。
火力演習に行ったはなし。
どうも。いしだたみです。
昨夜は凄い雷でしたね。あんなに鳴り止まない雷は人生初でした。格好良かったなぁ。
ああいう自然の猛威みたいなものは怖いと同時にどうしても惹かれてしまうもので、昨日もカーテンを開けながら光ったり音が鳴ったりする度に「わー!」とか「うひょー!」とか言いながらはしゃいでました。完全に子供ですね。
さてそんな私ですが、先日
平成30年度富士総合火力演習
というものに行ってまいりました。
これは自衛隊の演習で、富士山の麓で本物の戦車やら自衛隊員やらが実際にドンドンバンバンする所を見られる というものです。見学チケットは抽選制で 何と
今年の応募総数は約15万通
倍率は約28倍
当日の参加人数は約8000人
という非常に大規模な演習らしいです(知らなかった)。
この記事は特にレポート目的ではない為、当日の様子や細かい状況なんかは省こうと思います。しかし私的に感じた事をいくつかチラホラと。
ライブのようにスタンド席とアリーナ(シート)席に分かれてた。天気はほどよく曇り
その1.戦車が格好良い
約2時間程の演習の中で実に様々な装備品(兵器とは言わない)が出て来たのですが、いやー、圧倒的に戦車が格好良い!
上が10式戦車で下が89式装甲戦闘車(通称89FV)。多分
戦車、と言うと大砲が付いててキャタピラで動くもの全てを総称しているように思われがちですが、実は
これらは全て別物です。大砲の照準が水平か鋭角かとかで区別されます(雑)。
その中で段違いの格好良さを誇っていたのが、相手の装甲車両に対抗する為の水平な主砲を持つ戦闘車。もう音と圧が自走砲やら機関砲とは比べ物にならない!耳を塞いでないと心臓を持って行かれます。
他の装備品がバーン!.........ズドーン! という感じなら、
戦車はズパンッッッッッッ!!!
文字通り空気が揺れるので当然身体も揺れます。距離にもよりますが、主砲が光った瞬間には弾着しているイメージ。大砲と言うより銃をハチャメチャに大きくした感じですかね。あー語彙力。ちなみにこの日の的は最も近いもので約600m、最も遠いもので約3000mだったそうな。戦車は1000〜2000m程を狙います。
ちなみにこれは「自走砲」。砲身が長くやや角度が付いている
その2.衝撃波は見える
はい、見えました衝撃波。砂塵とか煙とかではなく、あれは紛う事なき衝撃波でしたね。だって漫画みたいにブワッ!ってなったもん。
戦犯は対地雷原処理班が投射した処理用ロケット弾。まあつまりは遠距離から地雷を処理する為のロケット弾です。写真が無いのが口惜しい限りですが、どうやら当日の火薬量だか搭載弾数だかは実地より少なかったらしいです。あれで控えめとか実地怖い
その3.紛れもない戦場の空気
今回の演習中 「あ、怖いな」と背筋が寒くなった時がありました。それが
対人障害が使用された瞬間 と 簡易トイレの中で音だけを聞いていた瞬間でした。
前述した戦車やロケット弾などは基本的に対戦車であったり対地雷原であったりと、対人ではありません。しかし指向性散弾という装備品は違います。これは主に陣地の前などに設置して通りかかった敵をレーダーで感知、即座に散弾を発射するという明確な対人障害です(あくまで兵器とは言わない)。演習では人に見立てた風船が的として使用されていましたが、複数個の風船が文字通り一瞬で消えました。ズババババン!くらいの物を想像していた私にとって、これは結構な衝撃でした。周りの観客も同じような事を感じたのか、「おおー!」という歓声は上がったものの その場には何とも言えない重さが立ち込めていました。
また、演習は主要装備品の紹介をする前段演習と 模擬実践形式の後段演習とに分かれています。その後段演習の際 私は少し抜けてお手洗いに行きました。狭い個室トイレの中で、聞こえて来るのは幾台ものヘリコプターの音と緊迫した本部からの号令。そして銃声 移動する車両の駆動音 爆発音。何のひねりも浮かばない程、素直に怖かったです。これまではどんなに強力な装備品であってもどんな轟音であっても目の前にあり、これから何が起きるのかどんな状態なのか全てが説明され分かっていました。「車両上部の旗が緑の時は安全、赤の時は砲撃準備だから耳を塞げ」。そんな丁寧な配慮までありました。しかしこの個室の中は違います。今戦場はどんな状況で何が配備されどのくらいの距離でどんな戦闘が行われているのか全く分かりません。全てが入り混じった”戦場の音”が響く中で、自分の無力さを痛感しました。いや、そんな言葉も今だから言えますが、「怖い」当時は本当にただただそれだけでした。
16式機動戦闘車(通称MCV:下)のようにキャタピラを持たない車両もある
さーてここまで長々と書いてきましたが、結論としては行って良かったです!
この言葉が適切かは分かりませんが非常に”楽しい”経験でした!
戦争の怖さや悲惨さは重々承知していますが、やはりこうした装備品にはロマンがありますね。全ての強さは少なからず美しさに繋がると思っているので、そうした美しさを肌で感じられた事は素直に良かったなぁと思います。
富士総合火力演習は毎年行われているので、興味を持たれた方は来年の抽選を狙ってみてはいかがでしょうか。29歳以下は青少年シートという特別枠があります。きっと一般枠よりは少し当たりやすい筈(今年の私もこれでした)。
よーしHoIかWoTでもやりながらあんかけうどんを食べるぞー。
音楽を聞く意味とか意義とか。
「みんな何でそんなに音楽聴くの?」
と先輩に聞かれたことがあった。
音楽を携帯で聞くか音楽再生プレイヤーで聞くか、みたいな話をしていた時だったと思う。そしてその時の自分は特に明確な答えを返せなかったように思う。取り留めのない話だから全然覚えてないけど。
私の音楽の聞き方はとにかく 浅く広く だ。
特段好きなアーティストが居る訳でもないが、邦楽も洋楽もクラシックもラップもネット音楽も聞く。というのも、私が元々ニコニコ動画出身だからだ。ボカロや歌い手に詳しくなる一方で「世間で売れてる曲も聞かなきゃ」という謎の使命感も持っていたから、話題になった曲は取り敢えず一回聞く みたいな今のスタンスができあがった。自分が良いと思うかは別として、何かしら話題になる要因はある筈だからね。
さてそんな自分が音楽を聞く理由を考えた時に、そう言えば自分は移動中に音楽を聞く事が多いなあと気付いた。家の中でBGM的にかけるとかどっかに居る時に集中して聞くとかよりも圧倒的に多い。ではそれは何故か?私は一つの仮説を立てた。
その時聴ける音楽が気分のバロメータ説 である。
楽しい曲が聞きたいか悲しい曲が聞きたいか。
アップテンポかスローテンポか。
歌詞に意味はあるか無いか。
激しい曲か穏やかな曲か。
これらは複雑に絡み合って、その時の気分によって“聴ける”ものと“聴けない”ものに分かれる。ということはつまり、この曲が聴ける時はこういう気分 と自分の状態を把握する目安として使えるのではないだろうか。
アップテンポで激しい曲が合う時はエネルギーに満ち溢れてる時だろうし、逆にスローテンポで意味のある歌詞を聞きたい時は自分の悲しい気分を代弁してほしい時。
こういう大体の方向性が見えて来ると、「あ、今凄く元気だと思ってたけどこの曲は聞けないからマックスではないのかも」「悲しいと思ってたけど実は言いたい事が言えなくてイライラしてるのかも」と何か気付けるようになる。私は自分の気分が不明瞭な事が結構ストレスだったりするので、音楽という外の力が指針となってくれるのは結構助かる。
色んな気分に合う曲と出会う為に、今日もせっせと曲を漁る。さっき 7泊で借りたと思ってたCDが1泊だったらしくTSUTAYAの催促の電話が現在地である静岡まで掛かって来た。もうちょっと早く言ってよ...借りたのもう3日前じゃん...帰るの明日だから最短でも5日延滞した事になるじゃん...。
こんな時にはどんな曲が”聴ける“のだろうか。ホテルの大浴場にでも浸かりながら、ゆっくり考える事にしよう。